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土佐の古代塗 はじめに土佐の古代塗の創始者とされる種田豊水についての事績を紹介する。豊水は、文政九年(一八二六)、山口県豊浦郡にある教念寺の住職泉勇健の五男として生まれた。幼少より絵を描くことを好み、京都の画家小田海僊に弟子入りして本格的な日本画を学んだ。その後、京都を後にし、名古屋で金城一国斎から漆芸の手ほどきを受ける。さらに、福島県の会津で蒔絵を含む漆芸技法を修得したと伝えられる。豊水は、幕末に高知県高岡郡佐川町の庄屋種田佐八の養子となり種田姓を名乗った。明治四年、文明開化の波とともに人力車が導入されると、豊水は現在の高知市帯屋町に移り、人力車の背面に花鳥文様の蒔絵を描き、当時豊水蒔絵として衆目を集めたといわれる。人力車の装飾は、短い時間に広い面積を描くために、豊水が会津で修得した消粉と色粉蒔絵の手法が効果的であった。明治十年代後半には、蒔絵人力車の流行がおさまると、豊水は再び佐川町に帰り、花鳥画を中心に本来の日本画家として制作をし、勧業博覧会などで褒状を受けている。明治二十年代になると、豊水には二人の漆芸の後継者が生まれる。小栗正気と山脇信三である。明治三十二年(一八九九)豊水は、二人の弟子 に見守られ佐川町で没する。 古代塗は、豊水の作品には見あたらず、二人の弟子によって完成される。豊水は、画家であり蒔絵を得意とした漆芸家でもあった。そのために、名古屋で金城一国斎から授かったとされる堆彩漆をはじめとする装飾法は、専門的な絵画教育を受けていない二人の弟子に伝授したと考えられる。その結果、草創期の古代塗にはすでに完成した堆彩漆がみられる。完成した古代塗は、高知市に開校された市立工業学校で多くの学生に指導され、技法的にも筆による描き上げ文様から、簡便で量産できる型紙を使った下地上げに変わる。その後、市立工業学校の卒業生を中心とした古代塗企業が設立され、地場産業としての漆器生産がはじまり、高知市を中心に販売が行われる。また一方では、吉田源十郎や渡辺索舟などの卒業生が東京美術学校へ進学し、古代塗と蒔絵を併用した作品を発表し、美術工芸の分野でも発展した古代塗の姿が確認される。土佐の古代塗の創始者とされる種田豊水は、三代一国斎(木下兼太郎)とほぼ同じ時代に日本各地を巡り、絵画と漆芸を修得した勤勉な作家といえる。地史にあるように名古屋で金城一国斎から漆芸技法を伝授されたとすれば、三代一国斎と同門の作家であり、土佐 の古代塗もまた、高盛絵の完成される過程を示す貴重な姿をとどめているとも考えられる。 蒲原の古代塗 蒲原の古代塗についての記録は、土佐の古代塗同様に少なく、創始に関わる伝承もわずかに遺されるのみである。地元に伝えられた古代塗の記事をまとめると概ね次のようになる。 天保十年(一八三九)頃、僊智(仙智)という仙台藩の藩士が病気療養のために蒲原に滞在した。僊智は、病気快癒の後も蒲原にとどまり、 子供たちに武芸やや学問を教えながら漆器を作り、僊智塗と称した。明治元年、僊智は亡くなり同十一年古代塗と改称した。古代塗は、明治三十年以降大量生産され、生産額も昭和初期には年額三千円にものぼり、アメリカをはじめとして海外に輸出された。戦前まで盛んに生産されていた古代塗も、戦禍で職人を失い戦後は生産されていない。 現在「僊智山人」銘の漆器は、蒲原町の五十嵐家に二点遺されている。二点の作品は、ともに同じ文様で一点は堆彩漆、もう一点は木彫りに彩漆がほどこされている。この二点の古代塗の文様について少し述べておきたい。今回、参考作品として展示された「唐草人物古代塗方盆」には、天使、獅子、蛇、唐草など当時としては斬新な文様が描かれている。天明元年(一七八一)に発刊された『裝劍竒賞』の挿図には、この文様の手本となったと考えられる図案が遺されている。当時、『裝劍竒賞』は、後藤家をはじめとする錺師の系譜、鞘塗り、印籠、根付、革などをまとめた刀装に関しての教本として広く流布していた。その「巻之六附録」に革品が記載され「人形手」の挿図として唐草、天使が紹介されている。革製品は、箆や鏨で文様を打ち出し、金銀箔を押して、透明な漆を塗り、唐革もしくは金唐革とも呼ばれる。僊智が「唐草人物古代塗方盆」を制作した際に、『裝劍竒賞』の挿図を参考として利用したことはじゅうぶんに考えられる。さらに、革製品に見られる浮彫り風の文様からは、堆彩漆の下地の盛り上げと共通する表現を感じとることができる。言い替えれば、僊智の考案した漆器は、 唐革細工の浮き彫りを漆芸技法に写した表現であるとも考えられる。革細工の文様と表現は、蒲原町の古代塗の起源を知る上で貴重な手がかりを与えてくれる。
古代塗の名称 最後に、古代塗の名称について触れておきたい。古代塗の名称は、高知県高岡郡佐川町出身で蒲原町で余生をおくった田中光顕(一八四三〜一九三九)と深い関わりがあったと考える。光顕は、宮内大臣を辞した明治四十三年、静岡県富士川町に敷地約一万坪の「古渓荘」(現野間農園)を築き、自適の生活をする。しかし、大正七年の米騒動で住民から批判を受け、隣接する蒲原町に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)を建て余生を送った。また、光顕は明治三十四年に日本漆工會の二代目会頭に就任し、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの事業を積極的に行っている。光顕が富士川から蒲原へ移住した大正十二年には、古代塗は静岡県を代表する特産品であった。さきに挙げた光顕の事績や漆芸に対する興味からも、故郷佐川町で生まれた漆器に命名する機会もあったと考える。光顕が、土佐の古代塗の命名者かどうか判明できないが、土佐と蒲原の二つの土地で生まれた古代塗の名称に関わりの深い人物といえる。 (東京国立博物館資料部資料第一研究室長) | |||||||||
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