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まづ、一國齋関係の史料を下に列記する。中にはすでに紹介された史料もあるが、本稿に必要と認められる記事は重複を厭はず取り上げることとした。 荒川浩和 ○蒔繪茶棚 高案 沼田郡江波村 木村兼太郎 外一名 尾張ノ人中村義之(號一國齋大坂ニ萬ス)ノ門ニ入リ支那様蒔繪ノ法ヲ学フ 義之ノ告老癈業ニ及ヒテ悉ク其訣ヲ受ケ一國齋ノ號ヲ継ギ安政二年歸國シテ開業ス ○仝 擬古?器 廣島猿樂町 永井才次 (花紋) 江波村 木下兼太郎 堆黒?黒等ノ机案形状皆佳ナリ 其茶厨の如キハ能漢土ノ古製ヲ模?シテ頗ル雅韻アリ 『明治十年内國勸業博覽會審査評語』 ○29 KINOSHITA KANETARO Stamping−ink box(1) “NATIONAL EXHIBITION OFFICIAL CATALOGUE” ○廣島區江波村木下兼太郎ハ文政十二年ヨリ?技ヲ學ヒ天保八年ニ開業ス後大坂ニ出テ金城一國齋義之ト云フ者ニ就キ蒔繪ノ法ヲ習ヒ遂ニ師號ヲ嗣ク 第一回内國勸業博覽會ニ花紋賞ヲ受ケ其第二回ニ褒状ヲ受クト云フ 販額 一年凡ソニ百八十圓 『府縣漆器沿革漆工傳統誌』(明治十九年) ○金城一國齋記事 一國齋の由來 元と尾張藩の従士に中村正作一國齋と云ものあり(略)鎌倉譜面に出で辛じて一外國人にョり斯術を研究するの道を得たりしも未だ其意に充たずさらに長崎に往きて研究するの結果堆朱堆黒等の眞髄を得歸東の途次下の關より山口に至りしが圖らずも長州藩藩主の知る所となりて召抱へられ名を中村市郎右衛門と改め下の關に止ることヽなれり(略) 『日本漆工會雜誌』七十九號(明治四十年) ○蒔繪苦心談 名匠一國齋の談 白水生 一國齋の由來 尾張藩の御従士に中村某一國齋と云ふのがあった。某人は誠に器用な人であって何んなことでも仕るのであるが、就中漆器を扱ふことが好だったと見え、種々な物を塗って居たが、蒔繪の類を仕り初めてから、自ら一國齋塗と名命した處が案外それが、世間から歓迎を受けたのである。其子に中村正作と云ふのがあった。父某の後を受けて御従士となり、傍ら父の好んだ漆器塗りを教はって、二代一國齋と稱して居たのであった。(略) 『尚古』第二年 第五号(明治四十年) ○澤木一國齋 壽光量最信士 嘉永四年四月四日 六九 中區白川町光明寺 無雙と號す 伊勢松阪白粉町に生る 壮年大阪に出でて漆器の製法を學び唐漆器及蒔繪を能くす 文化八年名古屋に來り傳馬町又關鍛冶町に住し尾州家御小納戸御用塗師となる 嘗て命を受けて尾張侯の幕府に◎ずる津島祭蒔繪文臺大小二個を製す 歿する時歳六十九 子三人あり 長子大阪に住し次子は廣島に往き季子常助名古屋に在りて其業を継げり 『汲古』第五巻(昭和二年) ○金城一國齋傳 河面冬山 初代金域一國齋 中村市郎左衛門 尾州の藩士なり。金蒔繪を能くし又甲冑乃刀の鞘等を作る事上手にして名手の譽あり。名古屋城に因みて金城一國齋と稱す。 二代目金城一國齋一作 中村一作 市郎右衛門の長子にして、性磊落藩の束縛を好まず、技術研究を名として藩を脱し國々を 遊杖す。(略)後ち門人池田兼太郎に業を讓り瓢然再び浮雲の旅に出しまゝ其終る所を知らず。『漆と工藝』三百四十二號(昭和四年) ○澤木一國齋 澤木一國齋、無雙と號す。伊勢松坂白粉町の人なり。壯歳大坂に出でて漆器の法を學び、唐漆器及び蒔繪を能くす。文化八年、名古屋に來り、傳馬町又は關鍛冶町に住し、尾州家小納戸御用塗師となる。曾て命を承けて尾張侯より將軍に獻ずる所の津島祭文臺大小二個を製す。 嘉永四年四月四日歿す。享年六十九。光明寺(中區白川町)に葬り、壽光量最と諡す。 三子あり。長子は大坂に住し、次子は廣島に往き、季子常助名古屋に在りて其業を継ぐ。 (中村氏文書、墓碑) ○中村又齋 子又參 中村又齋、通稱は榮次、伊勢松坂白粉町の人なり。歳十三にして名古屋に來り、澤木一國齋の門に入りて?漆の法を學ぶ。居る事四年、大坂に出でて一國齋の長子に從ひ、更に其法を究むること四五年にして本府に歸り、法華寺町に住して業に從ふ。(略) 『名古屋市史』人物編第一(昭和九年) 次に、一國齋の菩提寺である光明寺の過去帳より、関連の法名を拾ひ上げると、次の通りである。(註2) ○嘉永四 亥年 四月四日 壽光量最信士 七十五 一●齋正平 「 ○明治貳巳年 十月二十七日 勝室最願法尼 七十六才 一國齋恒助母 ○明治八乙亥年 九月七日 第一大區五小區關鍛冶町三丁目壹番地 最念勝道信士 澤木常助 五十三年七ヶ月 旧八月八日 以上の記録に基き、初代一國齋以下の略歴を整理すると、およそ次の通りになる。異説も併せて記し、出典はカッコ内に略記した。 ○初代一國齋 安永六年〜嘉永四年 澤木正平 号無雙 伊勢松坂白粉町出身 大坂で漆藝修行 文化八年名古屋に移り、傳馬町又は關鍛冶町住 尾州家小納戸御用塗師 嘉永四年四月四日歿 光明寺に葬る 壽光量最信士 妻勝室最願法尼 明治二年歿(光明寺過去帳・市史)註3 一説に中村市郎左衛門(『漆と工藝』)中村某(『尚古』)享年六十九歳(『市史』他)ならば寛政五年生 ○長子中村義之 初代一國齋長子 生歿年不詳 門人に中村又齋 大坂住 一國齋と号す(『内國博』) ○次子中村一作 初代一國齋次子 生歿年不詳 諸国を遍歴し 長州藩に召抱へられ中村市郎右衛門と称す 廣島で木下兼太郎に業を槫へる 一説に正作(『漆工會雑誌』『尚古』) 初代一國齋長子(『漆と工藝』) ○末子澤木常助 文政五年〜明治八年 關鍛冶町住 明治八年九月七日歿 最念勝通信士 初代妻法名の註記には「一國齋恒助母」とあり 以下の略歴によって、金城一國齋の系譜を構成すると、次の通りになる。
前回の小論發表の段階では、初代・二代の一國齋については確かな記録を殆ど見出し得なっかた。今回は初代一國齋の歿年を知ることができ、些かの前進を果たしたと云ひ得よう。 一方、木下兼太郎に技法を傳へた一國齋については、なほ問題とすべき点が少くない。兼太郎が明治四十年に藝備日々新聞に自ら語った記録は、その後若干の訂正が行はれてニ三誌に發表されてゐるものの、内容に於ては大差がない。ここでは、尾張藩従士中村某一國齋の子正作が廣島に逗留の際、技法を傳授し、一國齋の名を讓ったと述べてゐる。これに対して、第一回内國勸業博覽会審査評語その他によれば、大坂の中村義之一國齋に就いて漆藝を習得したことになってゐる。名古屋市史によれば、澤木一國齋には三子あり、大坂に居住したのは長子としてあり、これを義之に当てておいた。しかし、ニ子と見られる正作も大坂で一國齋の名を掲げて高蒔絵を業とした時期があったといふ。 從って、二代一國齋を名乗った者は、名古屋で澤木家を継いだ常助以外に、大坂の義之、廣島の正作といふことになる。さらに正作は大坂に居たこともあり、長子、ニ子同一人物といふ可能性もないとはいへない。以上のやうな問題点を残してはゐるが、現段階で得られた史料に基いて、金城一國齋系譜を構成しておいた。向後の研究の資ともなれば幸である。 因に、一國齋が得意とした錆上げ彩漆の技法は、土佐や蒲原の古代塗とも共通点が認められる。これらの系統は省略したが、技法の傳播に関しては加藤寛氏の稿を参照されたい。 本稿を纒めるに当たって徳川美術館の小池富雄氏・MOA美術館の内田篤呉氏の御協力を得た。記して謝意を表す。 註1 荒川浩和監修『近代日本の漆工藝』総論の「漂泊の漆工 金城一國齋」参照(昭和六十年 京都書院刊) 註2 一國齋関係は第二号と第四号にあり、第二号の表誌には次のやうに記されてゐる。 文政八年ヨリ 天保 弘化 嘉永 新葬帳 第弐号 註3 『名古屋市史』及『汲古』の「金城名家忌辰録」の内容はほぼ同じであり、「中村氏文書」よったと見られる。中村氏文書は鶴舞中央圖書館に収蔵されてゐるが、該記録は確認できなかった。 (前東京国立博物館工芸課長) | |||
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