最初の献納品

木下兼太郎氏は金城一国斎となって、好きな道とは云いながら尚一層斯術を練磨した結果、大いに悟る所があると同時に、技術も幾段の光輝を添えて来たのである。

然る処氏の精巧雅致なる妙技が、何日の程にか、陛下の耳に届き、宮内省から花瓶を献上せよとの命令があった。

其年月は分明らないけれども、今の第五師団が広島鎮台と云うて居た頃であって、まだ将官はなく、高橋大佐が統率して居ったので、即ち歩兵第十一聯隊の先祖である。富小路侍従から、県庁を経ての命令であって、氏は非常に己を名誉としたのみならず、実に明治の今日に於て、一国斎と云えば高蒔絵の代名詞である歟(か)様に、認められるるに至ったのは、この宮内省への納品が始めてであった。

それであるから氏は十二分に丹青を凝して、高さ八寸位の壺型(つぼがた)の花瓶を二本漆の練り上げに、拵えたのである。

其一は黒の仕上げ、一は草花の色彩を施したので、二本ながら宮内省に買上げとなった。是が即ち木下一国斎の名が知られた起原である。

それから去ぬる明治九年に内国勧業博覧会が、京都に開かれた時、出品して褒状を得られた。

次で明治十年に東京で、勧業博覧会が開かれた時、食案を出品して、擬古漆器としての賞状を得た。

それから今日に至るまで、博覧会や共進会に父子一国斎が出品したのは、多数なものであるけれども其度毎一として褒状を得ないことはない。

今日でも当県庁に一の卓子があるが、其素地は猿楽町の永井が作ったので、一国斎が之を塗り上げたので足の彫り方が不体裁であると云って居た。


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