一国斎の成業

木下氏は師の中村氏に分かれてから後も、師の訓戒を服膺(ふくよう)し一家を成さんために、京阪の地方は言うに及ばず、東京方面から長崎に至るまで、堆朱、堆黒の研究に余念なかった。

其結果中国漆器の紅花緑葉、在星、堆朱、堆黒の真奥を極むることを得たからして、之に本邦在来の漆器法をも応用して、一種の折衷方法を得、それを一国斎独特の技術として、今日の如く欧米人にまでも賞玩さるるに至ったのである。

けれども当時は維新の際であって、天下は麻の如く乱れて居ったので、なかなか美術どころではない。

それで木下氏が苦心惨憺して、作り上げた、製作品も尋常一様の漆器と認められて、其真価を世人に知らるることが出来なかったが、元来今の一国斎は己が名を售(う)らんために斯術を研究したのではないから、己が欲するまま筆を執って、日夜斯業の研磨に怠りなかった。

然る処徳川幕府が王政を奉還してから、天下の秩序も立ち文物孜々として開明に赴くに従って、一国斎の名も邦内に知らるることとなった。

此処に名古屋に旧御徒士であったものが、今日でも金城一国斎と名を打って、塗師を仕って居るものがある。

其人は木下氏の恩師である中村氏と多少知己であると見えて、中村氏が名古屋を出奔してから行衛不明であるために、金城一国斎と銘を打った、漆器を出しつつあったものと思われた。

然るに前述の如く、今の木下一国斎の名が邦内に知られてから、名古屋の御徒士であった、一国斎は或時書を木下一国斎に寄せて本名は中村正作と云うのではないかと、尋ねてきたのである。

それは言うまでもなく、金城とは名古屋の金の鯱魚(しゃちほこ)から命名されたのであるから、広島(ここ)で云えば鯉城と云うのが当然である。

それを広島(ここ)に金城一国斎と呼ぶ、蒔絵師があるとは怪訝(けげん)なと思って、尋ねて来たものらしい。

木下氏は中村正作と云うのは、自分の恩師であって今は居られないが、自分は士から一子相伝として、一国斎の秘術を受けたものである。

広島の者ではあるけれども、師中村氏の訓誡に依りて、金城一国斎と銘を打っておるのであると、答えて遣ったら、其後今日まで何事も言って来ぬそうである。

然しながら名古屋には今日でも此の一国斎の銘を打っておるものがある。

それは木下氏一国斎とは製作の仕方に雲泥の差があって、彼は普通の一閑張的の塗師であるそうな。

子息池田亀吉氏は折ふし鯉城一国斎と銘を打つことがあるそうなが、それが父木下氏の知る処となると、非常に八釜敷ので、自己が幸いに庵宗匠であるからして、塗器を容れる箱の蓋に俳句を書いて置くとの事である。

それが宮内省の買い上げになる品ででもあると、天皇陛下の目に触れることがあるそうである。


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