兼太郎氏が中村氏に指示したのは十五の年齢であって、天保時代の末より弘化、嘉永、安政の年間十ヶ年間計り、日夜孜々として、斯術を研鑽したのであって、師に附随して東に西に居所を定めなかった。 処が兼太郎氏が二十五の年齢で師に随って柳井に往かれた。 或日中村氏は兼太郎氏の技術が上達したのを信じてか、此処で金城一国斎の名を譲られて、金城一国斎の名は師の中村氏も、再び使用(つかわ)ないこととなった。 其時、中村氏は兼太郎氏に向かって、我は今汝と此処にて袂別(わか)れて再び会わない。 また一片の音信も通じないからして、此上己が十分に斯術を研究して、一国斎の名を海外にまでも輝かせよとの、訓戒したのである。 其時兼太郎氏は師に記念として有名な佐賀蒔絵桜の茶入と、紫陽花模様の茶箱とを贈った。 之が木下氏の処女作であって、其製作を見た中村氏は、木下氏の技量を三嘆したそうである。 | |
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