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二代一国斎が長州に召し抱えられたのは、蒔絵をするのではなくて、戦国時代の事であるからして、鎧の塗師をする丈けであるから、己れが手腕を振るうことが出来ない。 鎧(よろい)の錣(しころ)などを主として行って居ったので、只錣の塗が平凡でないとか、又は継合が綺麗であるとか云うにすぎないのであったから、食禄を擲(なげう)ってまで苦心した結果、大いに得る所があった、堆朱、堆黒妙味を世人に知らるることが出来ない。 それであるからして中村氏は心中快々として楽まなかったが、遂に意を決する処があって、山口を逃げて大阪に往って、其頃難波新地を南に入る処に桜湯と云うがあった。 其処の向側に金城一国斎と云う標札を揚げて、専ぱら高蒔絵をして妙技を現して居たのである。 | |
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