一国斎の由来

 尾張藩の御徒士に中村某一国斎と云うのがあった。
某人は誠に器用な人であって何んなことでも仕(や)るのであるが、就中(なかんずく)漆器を扱うことが好であったと見え、様々な物を塗って居たが、蒔絵の類を仕り初めてから、自ら一国斎と命名し処が案外それが、世間から歓迎を受けたのである。其子に中村正作(かずさく)と云うのがあった。
父其の後を受けて御徒士となり、傍ら父の好んだ漆器塗りを教わって、二代一国斎と称して居たのであった。
処が此人は天性磊落不羈(らいらくふき)であるから、旧幕時代の所謂(いわゆる)御奉公なるものが己れの自由を束縛されるのを 厭うて、父から教わった蒔絵を研究したいと云う考えからして、或時脇差一本手挟んだまま尾張藩を夜逃げしたのである。
其頃は未だ今日の如く互市場の開けて居ない時であるから、外国人に就いて斯術を研究すると云う事が、非常に困難であったのを、幕府の目を忍んで鎌倉方面へ出て、辛うじて一外国人に頼って、斯術を研究したが、それでもナカナカ自分の意に充たぬからして更に方面を転じて長崎に往って、研究した結果、堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)等の真髄を得て下関に戻って、それから帰郷する途中山口に足を容れた処が、図らずも長州藩主の知る所となって、召し抱えられて名をも中村市郎右衛門と改めて、下関に居った妻女をも呼び寄せ其処に往って居たのである。


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