金城一国斎は本名を木下兼太郎と云って、本年七十九歳の老躯(ろうく)であるけれども、尚矍鑠(かくしゃく)として、日々工場で筆を執って居る。 其一子池田亀吉氏と云うのは、今茲、三十三歳であるが、彼は先の多賀庵由池宗匠の弟子であって、今の壺中庵宗匠である。氏も父の業を承けて昼は孜々(しし)として筆を執って、夜は俳句の師匠をして居らるるのである。 木下氏の先祖と云うのは、森権左衛門と云って、紀州を浅野候の祖先が領して居った時旗頭として四百石を拝領して居たのであって、慶長五年七月〔正しくは元和五年七月(再録者)〕浅野長晟候が紀州から、此芸州へ移封された時に供して来たのである。 是が即ち今の木下家の先祖であったが、芸州へ来てから、間もなく世事に感ずる所あったと見え、地料を総て上田家に差上げて了って、自分は郷士となって鋤鍬を友とすることとなった。 それから五十六代を経て、一家は白島から江波村に移転して、同村の皿山に住んで居たものである。 兼太郎氏のちちと云うのは、三人の男兄弟であったからして、三人がそれぞれ独立するに就て、森と云う字を三分して、勝手に姓を命けたものらしい。其頃江波村に池田金五郎と云う家があった。其処へ養子に行って、源三郎は金五郎の名を冒したのである。後男四子を挙げ末子誠一をして池田家を継したけれども、誠一氏に子がないからして、将(まさ)に断絶せんとしたのを宗祖森家なる木下家を紹がれた今の兼太郎氏の末子、亀吉氏をして池田家を継がしたのである。 以上は今の一国斎の系統を略述したものである。 | |||
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